2016年4月6日水曜日

下総国分寺

 天平13年(741)聖武(しょうむ)天皇によって発せられた「国分寺建立の詔」により、「金光明四天王護国之寺」として建立されました。下総国分寺跡は、その詔によって建立された下総国分僧寺の跡で、現在の国分寺とほぼ同じ場所にあり、奈良県の法隆寺と同じ配置(法隆寺式伽藍配置)で、金堂・塔・講堂が建てられていました。
 
 昭和40~41年に実施された発掘調査では、現在の本堂下から東西31.5m、南北19mの何層にも土を固めた金堂の基壇が発見され、その基壇の中心から北西40mにあたる現在の墓地内に東西26m、南北18mの講堂の基壇があり、さらに金堂の基壇の中心から西へ39mのところに一辺が18m四方の方形の塔跡の基壇がありました。平成元年~5年の発掘調査では、寺の範囲が東西300m、南北350mほどになることや寺づくりや下働きをしていた人がいた場所などが分かりました。
  
 また、国分寺に使われた屋根瓦を焼いた登窯(のぼりがま)の跡も近くから発見されました。瓦にある文様は、当時多かった蓮華文とは異なり、「宝相華文」(ほうそうけもん、唐草の文様が花のように見えるところからこの名がつきました)と呼ばれる中国で考えられた当時の流行文様です。










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